シンプルライフ時々晴れ^ ^

周りをよく観て、自分も観えてくる

名京ウォーキングれぽ

名古屋-京都ウォーキングを通じて気づいたことや考えたこと

 これは完全な趣味である。やってる本人は楽しくてしょうがないし、止めろと言われても勝手にやり続けたであろうし、誰の役にも立たないものである。

 やっていると、ただただ楽しい。足が痛いのも楽しい。距離が段々減っていくのが楽しい。

 マインドをもっともっと上手く使えるようになっていくというのを、身体的なことを伴って実践する機会に恵まれたことが、ただただラッキーであった。

 マインドとしては、名古屋-京都間を踏破する、という目標を決めて、実践する、それだけ。足が痛くなっても、眠くなっても、目標を達成する自分ならどうするかを考えると、一歩踏み出すでしょ!という、やるかやらないかの、シンプルなものだった。

 今回は名古屋出発から京都到着まで約70時間の、日常とは少し離れた時間と空間の中では、いろいろなことが、体感として腑に落ちた。それを記録し、他のものごとに取り組むときのヒントとして残すことを目的の一つにしている

 

 

人間の能力はすごい

12/9(水)の夜10時くらいに名古屋を出発して、京都駅まで歩いて行った。

歩いたルートは約120km。

京都駅には12/12(土)の夜8時くらいに着いた。

その後、新幹線のチケットを購入し、名古屋へ直帰。

歩きでは70時間ほど、新幹線では1時間ほど、この違いには驚いた。

一瞬で移動した感覚である。文明の恩恵が、大変ありがたかった。便利だなと思った。

一方で、便利さの中で忘れていることや、失ってしまっていることも多くあるのではないかと思った。 人間は一昔前には、100kmくらいは当たり前に歩いていた。
それだけの能力は現在よりも割合として多くの人が持っていた。便利さが人間の能力を抑制させてしまっているという視点が持てた。  
また、新幹線を作る、線路を敷く、トンネルを通す、走らせるといったことに、どれだけのエネルギーが費やされているのかが、体感として良く伝わってきた。

お金も時間も、人々の労力も、本気で作って本気で運用していただいているのだと、驚嘆の想いや感謝の念を感じた。

 

したいことを選択して、好きでいる

内側からのモチベーション再考

自分が考えて吟味して、みずからが選択している行動のこと。

結果はすべて自分で受けとめ(自己責任)、一喜一憂せずに、一歩一歩進んでいく。

歩くことも、止まることも、途中でリタイアすることも、全部自分の結果。

何が起こるかわからないなら、できると思うことは何でもやって、結果を受け入れればいい。

起きたときに、柔軟に臨機応変に対応するだけである。今回は踏破できたが、道路事情や、身体的なトラブルだって、起きる可能性はゼロではない。

そんなときはそんなときで、みずから判断して、撤退を選択することだって、恥ずかしいことではない。

一方で、必ず踏破する、という自分との約束は、絶対に守る。
そのことは忘れてはならない。本気になって進む。
一時的にリタイアしたとしても、次は必ず達成する、そのための準備をもっとする、そういって、約束を破る自分がいるはずはないのである。言い訳はしない。
次はこうする、もっともっとできて当然だ、というマインドを楽しくもって、突き進めばいい。

 

突き進むことを楽しむ

ゴールの更新について

設定しているゴール以上には、人間はいけない。

途中で必ず、より高いゴールを再設定して、エネルギーを出す必要がある。

これは歩きながら、段々その日の目的地に近づいたときに感じたことであるが、近づくと、エネルギーが弱まる、これは確実だ。

あと数kmかと思うと、気がゆるみ、休憩をしてだらだらと進むようになる。それは無意識に起こったので、そのときにすかさず、「あと400km歩くつもりで、楽しんで進んでごらん」と、自分の無意識に働きかける。

そして、着くのではなく、通過する感覚。物理的には一時的に移動を中断して、身体を休めるが、イメージの上では、決して振り返らずに突き進む感じ。次の日も粛々と歩くだけのマインドで、進む。

 

全体と部分の関連

暫定ゴール設定と、コツコツやること

能力開発や学習の大切なことは、コツコツやることである。

同時に、全体像を捉え、どこを目指すのか、今どこにいるのかを明らかにすることである。

魔法みたいにワープというお手軽な方法はない。新幹線だって、当たり前に便利に使えているが、旧国鉄時代の、関係いただいた方々の財産を使わせていただいているのだ。

乗っている側もお金を払っている。走らせるために関係各所の方々に支えられている。

歩くにあたっては、コツコツと一歩進めることが、全体的な形として、名古屋-京都ウォーキングという意味になったのだ。

まず、そこに行こうとする意思決定をする(暫定ゴール設定)、踏み出す(行動)、変化を落とし込む、達成するまでやり続ける、それだけである。コツコツとやるが、苦しいことではないし、退屈なことでもない、楽しくてしょうがない。

その瞬間瞬間にしか考えつかないようなことが連想されたり、当たり前だと思っていたことが当たり前でなかったり、発見や学びばかりなのである。

 

 

感情との付き合い方

人間の恐怖とその解釈 人間は根源的に、暗闇と落ちることに、恐怖を感じることを体感した。

それは、街灯がほぼない暗い夜道を歩いているときに感じたことである。

暗闇については、そこに何があるのかわからないということや、例えば対向車がとすれ違ったときにライトの明るさの落差で視界が急激に真っ暗になる(瞳孔が急激に開閉することによる)ときに、先ほどまでに認識していた世界が消えてしまうことがあった。

また、落ちる恐怖については、段差や暗闇の中でバランスを崩して倒れそうになったときに、自分の軸が消える感覚が恐怖としてビクッとなった。ビクッとなるので、すぐさま反射的に体制を立て直そうとするし(無意識)、そのあとで心臓はドキドキして冷や汗をかく。
現状の外側に行く感覚、地面との縁起が切れて、相対的に自分の存在(自我)が揺らぐ感覚から、現状に引き戻そうとするホメオスタシスが作用していると解釈した。

でも、怖いものは怖いので、それはそれで認識して受け入れようと思った。怖くないというのは、自分の中では嘘である。怖いのだなと認識して、ではどうするかを、前頭前野(理性)で処理する。
対向車が来たらライトを見るのではなくて、一旦立ち止まって手で視界をカバーし、足元をしっかり見据える。落ちる恐怖は当たり前である。
転べば起き上がるし、ちゃんとした受け身を思い出して上手に転ぶ。転びそうなら休んで再トライするなど、選択をすればよいと思う。
恐怖はそれを認識して、それに囚われずに、粛々と処理する。囚われていると、おかしい判断をしかねないので、普段から想定外を想定して、日々練習することが必要だと、改めて気づけた。これだけでも、今回の取り組みの大きな収穫である。
もし明日起きてスマートフォンが起動しなくなったら、、、と想定すれば、バックアップも取るし、代替の連絡手段をもつことも考えられるだろう。そして、それらもどうしようもなく機能しなかったときは、一旦お手上げだ。
そして、じゃあどうするかを、粛々と考えてアクションするだけ。

慌てる必要はない、カッカと怒る必要もない、感情は感情として娯楽的楽しみをして処理して、コツコツ進むことをオススメする。

 

イメージの練習

おまじない的なイメージ操作

歩いていると、足が痛くなることもある。

そんなときは、痛いということに意識を向けると、痛い記憶が関連付けて想起されるから、おすすめしない。

痛みが緩和されるイメージを利用する。痛いときの部位の痛みイメージを丸い球にする(自分はバスケットボールくらいの大きさにした)。

それを1/10の大きさにする、イメージの中で。そうしたら、元の大きさにする。今度はそれを10倍の大きさにする。元の大きさにする。1/100~100倍の操作がイメージの中でできた。

また痛みが来るときには、瞬間的に1/100にする操作を、イメージの中ですることで、痛みを痛いと処理する操作とは別口で、痛みに対処できます。

やりながら自分でも、はじめは本当かと思う一面も強調されていましたが、それをどう解釈するかも自分次第。その操作ができる、ということを、無意識下に引っかけておく、それだけでも違います。

 

 

意識に上げるとコントロールできる

身体性の意識と操作

長時間歩くと、足の土踏まずが無くなってきて、偏平足になる。

足裏のアーチが無くなってきて、クッション性が機能しなくなってくるのである。日常レベルで歩くならば、土踏まずを意識することは多くない。

しかし、何十キロと歩いてみると、アーチがなくなる歩き方、体重のかけ方をしていることがあるのだと、はじめて身体性をともなって意識にあがる。

歩いて足の親指の付け根が地面について前進するために体重をかけ前のめりになるとき、アーチをのっぺりにする力が作用していた。

そう気づくと、前のめりになるときに、意識して、腿を少し引き上げるようにする。そうすると、必要以上にアーチがのっぺり方面に潰されることなく、全身で跳ねるようにばねを使って歩く感触に変化する。

そうすると、疲れにくい歩き方になる。これは、その歩き方をしないと足裏が痛くてしょうがないという中で見出した苦渋の方法である。

知識としてはもしかしてどこかで見たことがあったかもしれないが、実際に必要に迫られないと、自分のものとして使うことは簡単ではないということが良く分かった。帰って調べたら、ウォーキングのコツみたいなことで情報は書籍やwebにもあった。盲点だった、従来は認識できておらず、自分の重要性が変化したことを実感した。

 

誰かの応援で、もっといけるという確信、ありがたさ

人との関係性のありがたみ

一日目に30キロほど移動し、喫茶店で休憩していたら、お店のおじちゃんから声をかけていただき、応援してもらった。お食べといって、みかんをいただいた。言葉にならず、嬉しかった。ありがとうございますしか言えなかった。楽しんで一歩一歩進めること、達成できる確信が、より強くなったことを強く自覚できる瞬間でもあった。

 

ものごとの意味づけはみずからする

想定外でも、自分の一部分は冷静に見張って(見守って)いる感じ

一日目に張り切りすぎて、20時間以上不眠で歩き続けた。

そのままコンビニに夜中入り、トイレに入った。気が抜けたのか、トイレで意識を一時的に失う。

このときのことは記憶が前後していて、よく覚えていない感じがある。

すやすや寝てしまっていたので、店員がノックして在室確認したのには気づかなかった。

1時間少々だろうか、しばらく経ってまたノックが聞こえた。ヤベ・・・・と思ってドアを開けると、警察官が2人いた。

心配した店員さんが呼んだそうだ。

ごめんなさいと言って、事実確認をした。滋○県警のリスト入りした。

今振り返ると、気が動転して前後のことをよく認識できずに、そそくさとコンビニを後にしていた。

そのまま、予定していた近くのネットカフェにて睡眠休息に入った。起きて回復し、荷物の整理整頓をしていたら、携帯電話がないことに気づく。

焦ったが、寝落ちしたコンビニで落とした可能性に思い至った。それ以外ではリュックを開けてどうにかこうにか荷物に何かをしたとかはなかったと認識していたからだ。

早速、コンビニの電話番号を調べ、公衆電話から電話する。落し物として保管していただいていたそうだ。ラッキーである。見つからなければ見つからなかったで、利用停止の手続きをする、番号の再取得と、することを粛々とするだけだと、頭ではわかっていた。

見つかったので、6kmほど後退して、携帯電話を回収に向かう。これはこれで誤算だったが、それも楽しんで、逆手にとって活用してやろうと思いながら歩いた。

そのマインドをセットして歩くと、ポジティブに出会えた。後退した通り道に、某ケーズデンキがあった。

そこで、ヘッドフォンを購入した。音楽を聴きながら歩く(安全には注意して)ことで、彩りや楽しさを別の感じで味わいながら進めたのである。

累計すると12kmほどの追加距離だが、ロスでもなんでもなく、それはそれで得られることもあると、一喜一憂せずに景色を楽しめたことが良かったことであった。

そして、そのまま進む。コンビニをチェックポイントとして、淡々と進む。音楽を聴きながら(今回は某名古屋アイドルグループの劇場公演を聴きながら(1時間少々なので、1セットリストごとで適宜休憩を取り入れられるという優れもの))、歩を積む。

夜11時以降だとか深夜2時3時とかなので、寒いし暗いし人がいない(今回は12月初旬の関西圏太平洋よりだったので、路面凍結や雪、氷点下などはない状況を選んでいった。2月などの一番冷え込む時期に行くことは、よっぽどの準備と計画が無ければおススメしない。)。

コンビニのイートインコーナーで(自分一人しかいない)、暖かいものを飲んで食べる。そして、少し目を閉じて、回復する。気づいたら2時間とか経過していた(人が多く出入りしているときにするのはおススメできない、だからといって深夜にするのがOKという理屈にはならないが)。

そんなこんなで回復したりトイレに行ったりで、コツコツ進んでいると、残りは30kmくらいになってきた。

滋賀の守山駅近くに銭湯があったので、入ってから残りを目指すことにした。風呂は命の洗濯と言うが、まさにその通りであった。気持ちいいし、清々しいし、とてつもなくリラックスできる。身体も気分も爽快にリフレッシュして、次のステップを一新して進むのみ。

あとは淡々と楽しみながら、京都駅を目指すわけであるが、ゴールの更新ということだと、京都駅に行くことが目的ではなく、無事に新幹線に乗って、名古屋のお家に戻り、日常をさらに良く、建設的に過ごしていくという、なんだかフワッとしたゴールを思った。

だんだん近づくと、この3日間のことが一瞬のように感じてきて、やって良かったと思ったし、達成できたら、達成できて当然の自分だと、認めればよい。もし何がしかあって、残り数キロで断念しても、らしくなかったな、次はこうしようと、過ぎたことよりも未来のことにロックオンしていただろう。

そして、京都駅に着いた。新幹線の切符を買った。新幹線に乗った。名古屋まで帰った。自分の家まで帰った。京都駅から新幹線が出て、帰宅するまで、およそ1時間半。

え?もう着いたの?さすが新幹線!といった感じである。

 

自分以外のための喜び

結局自己満足なんだけどね。

今回は、個人で歩いて楽しむという、完全な趣味の世界であった。

自分ひとりだけのレベルである。

しかし、視点を変えてみると、

より多くの人が、歩くということを通して、みずからの健康や、コツコツやって達成できるという喜びを味わうことができるポジティブな世の中にしていく

ということにも繋がるなと感じた。実際、長距離ウォーキングや市民マラソンなどには、そういった理念が込められていて、関係する方々はそういったことを共有している節があるなと感じた次第である。

そして、健康であることのありがたさを、身体が痛くなりながら、感じることができた。

実際のところ、少し前の自分ならば足が痛くなったり、体調を崩していたこともあったので、今回のように上手くはできなかった可能性もある。

そんな時でさえも、いつか必ず達成するということを考えてみる、どうやったらできるかを、情報や知識を入れて行動していって、達成したい目的とつなげる。

それを粛々とやるだけ、焦る必要はない、競争でもない、楽しんでリラックスして、その都度都度の景色を楽しんでごらん、と進むだけであった。

 

おわり