シンプルライフ時々晴れ^ ^

周りをよく観て、自分も観えてくる

当たり前と思うことこそ何度も言葉にして意識に上げる

当たり前と思うこと、あるいは当たり前すぎて認識すら普段はしてないことこそ、意識に上げてみます。

それって、結局誰かの受け売りだったりしませんか?

あなたの中でのエピソードだと、どんな風に繋がるんですか?

そもそもそれが正しいと、常識だと盲信して思考停止になってませんか?

といった働きかけは、やはり常に必要です。

理由としては、人も世の中も、絶えず変化しているから。

権威のある人だから、社会的信用のある組織に属しているからといったパワーは、使えるなら使えばいいと思いますし、そういったものは実際にそれだけの価値を認められているということです。

一方で、あなたが肩書きも実績もリセットして素っ裸になって、何もない自分ということになったときに、それでもあなたはあなたを誇りに思いますか?
死ぬときは何も持っていけません。

死んだらその人にとっては終わりです。

残された人たちの中でどう解釈されようとも、あなた自身は終わりです。

それは事実です。

逆の視点だと、日々誰かは亡くなり生まれています。

でも、あなたは他人です。
それは、血を分けた親子であっても、そういう役割での関係性であり、一個人として独立しているという意味では、みんな他人です。

亡くなったから、あの人はあーだこーだはなく、その人が成したことの記録が残るだけです。
でも当人には終わっているので、執着や固執もやりようがないです。

生まれたばかりの人は、これからどうにでもなり得るので、そこに評価は本質的にはありません。

誇りに思うということすらないのかもしれません。

これから残された時間で何をするのか、過ぎた過去はエッセンスの記録として活用するだけで、思い出に(良いも悪いも)浸る時間はもったいないです。

次どうするか?
新しく何ができるようになっていくのか?(できなくなるもそれに含みます)
知識の更新や行動の促進がもっとするか?

といったことを、終わりまでに繰り返して、働きかけていくことが、個人としての尊厳をみずからが自分に果たす礼儀なのかもしれないと思います。

赤ん坊も老人もあまり変わりません。
年齢は関係ないです。
あなたが他者に対して働きかけるときは、その人の未来を観てあげることが重要です。
過去への執着は不要です。
(これは誤解を大いに招く表現なのかもしれませんが、過去志向を振り切るための言い方としてこの文脈では使っています)

それは私個人の価値観なので、唯一同じものは存在しません。
というか、したら逆に怖いです。

あなたがあなたの価値観で生きる中で大切にしている言葉は、何度も意識に上げて吟味し、日々磨き続けていけます。

どう思いますか?

それでは!