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シンプルライフ時々晴れ^ ^

周りをよく観て、自分も観えてくる

ほどほどに中観

空観(くうがん)、仮観(けがん)、中観(ちゅうがん)
 
仏教のものの見方として空観、仮観、中観があります。
 
結論から言うと、中観でものごとをみて、どっちでもいい、どうでもいい、という枠組みで、自由に自在に過ごして楽しみましょう、ということが、現時点での個人的な解釈です。少なくとも人ひとりの人生は一回きり、誰のものでもなくその人だけのもの、
無論、いろんな説明がいろんな人によってなされているでしょうが、今を大切に一生懸命楽しみ過ごしていきましょうということを、楽に受け入れてみて、同時に手放すこともできるという選択を持つという、一つ上の視点で(そして常に一段上がある)みていきましょうという考え方の提案です。
 
【空観】
 以前の記事で記したように、ものごとは関係性によって存在し、縁起が双方向に役割を果たし合っています。
 しかし、ものごとを突き詰めていくと、意味は結局人が解釈したものであり、実際は意味などありません。
 例えるなら、私たち人間の体は、水とタンパク質とカルシウムなどの、ただの集まりでしかありません。
 ブログを読んでいるとしても、それはディスプレイに移った無数の光の点の集まりでしかありません。
 音楽を聴いても空気が振動しているのを鼓膜や内耳が神経に届いた情報として解釈しているだけです。
 それらを何がしかの意味がある情報として解釈しているのは人間の脳による情報処理の賜物です。情報処理は便利であるが故、慣れたやり方を当然のように行っていますが、私たちはそのことをあまり意識しません。
 すべては意味なんてないし、空(くう)であることは、虚しいものなのでしょうか?
 そうともいえますし、そうでないともいえます。
 空観でみることは、ものごとが乱雑で感情的になったときには、有効な方法論です。
 所詮は意味なんて本質的にはないんだから、悩んだりカッカしてもくだらない。
 しかし、空観に偏りすぎると、悟った人になってしまい、無気力であったり投げやりなことになりかねず、ただのボーっとした人として、役割を放棄したりしても、それすら何とも思わなくなりかねません。
 思考停止ということになれば、人にいいように使われるだけですし、生産性も下がります。
 しかしながら、本質的には空です。
 量子論が現代物理学で論じられていますが、世界を構成するのは原子であり、原子は原子核中性子と電子(だったっけかな)でなりたち、さらに分解すると素粒子となり、超ひも理論というのも論じられている中では、所詮、超極小のひも(と呼ばれる概念)が振動しているかいないかという、もはや、
 
だから何やねん!
 
という領域に、一般の生活をしている身からするとなります。
 
*決して物理学を批判したりしているわけではなく、そういったことを探求するのが好きでたまらない方々の役割があるからこそ、未来のテクノロジーが(私たちが生きてる間かはわかりませんが)生まれてくるのです。(探求する人はそのこと自体が楽しくてしょうがないというのもあるでしょうから、人それぞれです)。
 
 結局、悟っていくかどうかは、一人で瞑想をし続けてもいいでしょうし(小乗)、でもそれって寂しくない?
 煩悩や欲望をゼロにしたって、虚しいんじゃない?
 
というのが、個人的な感覚です。
 
ともあれ、この世は空(くう)であることは、ひとつの観方として知っておきましょうということです。
 
【仮観】
 空観が、徹底的に意味を否定したのに対し、仮観においては、役割や機能・意味づけをして、実際に役立てていきましょうよという立場をとります。
 人間の身体は、内臓が食物を消化吸収し、エネルギー代謝をしますし、目や耳や手や足を使ってさまざまな活動を行います(歩く、書く、触る、見る、聴く、、、、、、)。
 役割を積極的に設定して、機能させていきましょう、せっかくあるのだから!
 というのが、主観での解釈です。
 
仮観も観方を誤ると、そのときの“仮”にすぎない役割が、唯一絶対の永続的で固定的なものと、思い込んで囚われてしまいます(人間は慣れると、ついついそのように捉えがちです、反省・・・)。
 
思い込んだ囚われの観方を「実観」と呼び、私たちはそんなものは無いという立場の視点で、あくまで空(くう)である前提での仮の存在であり、関係性(縁起)は常に変化し続けていることを自覚しておく必要があります。
そして、仮の役割は、人それぞれに異なっているということを私たちは知っています。
ブログを読むのを自分の文章の参考にする人もいれば、気晴らしにする人もいます。
音楽を良い感じのムード演出に使う人もいれば、聴いて自身を鼓舞したりリラクゼーションさせたりと、なんだってアリです。
なんだってアリです。
ただ、自分の観方が唯一絶対ではないということ、すべて仮であるということ。
人の価値観を知ること、自分の価値観を無暗に押し付けないこと、それが大切です。
 
【中観】
仮観の後半で述べましたが、所詮は空(くう)であることは十分に承知の上で、あえて仮の役割を設定し(みずからが、そしてお互いが常に変化し得る主体であることを自覚し、偏って固執しない)、臨機応変・柔軟にものごとを、人生を切り拓いていきませんか、というのが、中観の姿勢です。
どうせなら、より望ましいみずからのゴールに向けて、楽しみながら(楽しむのも大変な思いをするのも含めて自分の人生の、一回きりしかない大切な経験として)、日々をよく観て、淡々とするべきこと、したいことをしていくことが、重要なことではないでしょうか。
 
空観・仮観・中観の順番で、自分自身の日々の過ごし方を振り返ってみたり、未来の状態をイメージして働きかけたりと、そんなことを頭と身体を使って、目一杯堪能していくことを望みます。
 
ほんとうに、なんでもあり、どっちでもいい、どうでもいい!
 
どうでもいいからこそ、どうにかできていく能力が、私たち人間にはまだまだ眠っていると思います。
 
今回はこれくらいで^^